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プロフィール
げん
げん
山形県鶴岡市生まれ。
札幌、東京と移り住み、放浪の旅をへて
東北回帰~ 奥羽越(えみしの国)を拠点
に危なっかしくも面白く生きます。

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Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2016年05月10日

気がつけば、城下町


Facebookにも少し書いたのだが、なにぶんあちらには
あまり長文でだらだら書けないので、こちらに書く 笑

わたしは仙台の北・台原から、南の五橋にあるアイリッシュ
・パブまで自転車か、悪天候なら地下鉄で行く。
この距離、およそ3km半だ。
実は今わたしが書いてる小説(・・のようなもの)も関係
してるのだが、仙台のもともとの城下町というものの、
北端が台原周辺、南端が五橋周辺だったようで、つまり
わたしはたびたび仙台城下町を縦断往復している事になる。

もちろん、パブにてお酒を飲めば、自転車には乗らず
押して歩いて3km半の道のりを帰る事になるが、決して
これは無理な距離ではない。
ちなみに城下町の西の端は大崎八幡宮周辺、東の端は
榴ヶ岡公園周辺で、この歩いて回れるこんぱくとな範囲内に、
10万人の人口を想定して政宗公は街づくりをされた・・・と
言われる。もちろん、のちにこの範囲外に晩年の居城である
若林城と、別個の城下町も作るのだが、台原より北、楽天
球場より東、などは完全に郊外だった。
戦後は北・東・南に拡大して、城下町のこんぱくとさが信じら
れない程に仙台は広大になったが、その上での100万人
都市であって、もとの城下町の範囲内なら、依然数十万人
なのだろう、と思う。

このように、かつての城下町の多くは個人が歩いて回れる
範囲の、こんぱくとなしてぃーだったに違いない。
実のところ、東京でいえば3km半は、上野駅~東京駅間、
新宿駅~渋谷駅間ぐらいの距離にすぎず、いかに東京が
多くの人にとって「歩いて帰りづらい」都市かがわかる。

しかし東京の原型である江戸城下町というのは、北は浅草
や今の文京区あたり、西は四谷あたり、南は港区あたり
までしかなく、新宿、渋谷以西は完全に郊外だった。
江戸は糞尿などの処理サイクルが非常に上手く回っていた
先進都市だったが、このこんぱくとな都市サイズが膨張を
始めると、その均衡が崩壊していったようだ。

それでも昭和初期までは基本的に東京の人々の中で、
江戸城下町の範囲の感覚は生き続けていたように思われる。
例えば東京帝大や明治大学に通う学生らは、本郷や遠くても
おそらく早稲田周辺に住み、歩いても通学できるようにしていた。
今ではほぼ考えられないような事だが、そういえば早稲田大学
などは「都の西北」の歌の通り、郊外に近い立地だったのだ。

ふと気がついた事に、わたしの一族は大半が首都圏に出て
しまっているのだが、ただのひとりも「江戸城下町」の範囲内
には住んだ事がない という驚きの事実?がある。
というのも、みんな東京なら世田谷区、あとは神奈川県で、
川崎や相模大野に住んでいる。完全な東北ルーツなのに、
誰も荒川区や、江東区方面に寄り付かなかった(笑)のだ。
よっぽど、東北と切れたかったのかな 爆 さみしい

わたしの兄は札幌に住んでいて、これはもちろん城下町では
ないし、故郷の山形県鶴岡市は城下町だけれど、一族の誰も
いわゆる城下の範囲には住んだ事がない。

という事は、一族の中でかつての「城下町」に住んだ事のある
人間が、唯一わたしだけ・・・という衝撃の事実が!!爆
いや、台原というのは城下なのか?郊外のはじまりではない
のか?いやギリギリ城下ではないのか?(どうでもいい)

まあともかくも、偉大な武将が様々な趣向を凝らして作り上げた
城下町 その名残の上に生きている事の面白さ それを意識
せずして、やはりずっと楽しんできた事に、気づかされるので
あった。